『ねぇ、彩花』
『なんですか?めぇ』
『もし、もしも、俺が彩花を本当の意味で選んだのであれば彩花は何でも俺のお願い聞いてくれる?』
『…………えぇ、あなたの願うことなら何でも』
『そう、じゃあ――――』
「最後の仕事をしにきました」
そう告げた。声は震えてはいなかっただろうか。記憶が戻ってから初めてWSの制服を着たときは、WSに入隊したばかりの初めて袖を通したときのことを思い出した。ただおじい様の武勇伝に憧れて入ったWS。そして、ほんの半年くらいだけいた交通課。
時間にしてみればなんて短い期間。たったそれだけでも、本当に大切な想い出を貰った。
「最後の…仕事…?」
ベッドに起き上がり、呆然とした表情で王太は呟いた。
すると雨丸は困ったように微笑みながら、王太へと近づいていく。
咄嗟に警戒した王太が、距離をとろうとするが雨丸が先手の言葉を打つ。
「何もしませんよ。安心してください」
穏やかにそう言うと、雨丸はベッド脇にあった椅子に腰掛ける。次いで、暫しの沈黙。
お互いがお互いに話すのをためらっているようなそんな沈黙。そんな中、口火を切ったのは王太だった。
「元気だった…か?」
「あ、はい。元気…でした。その、すみませんでした。足撃っちゃって…その」
「言わなくていい。どうせ、脅されでもしたんだろ」
「あはは、なんだか全てお見通しってやつですか」
「お前の考えはすぐ顔に出るからな〜」
やれやれと肩を竦める王太に、雨丸は苦笑いを返した。
こんな軽口の応酬もすごく久しぶりだ。彩花とは違う班長の優しさが今は少しだけ痛い。
「そんなに顔に出ますか?自分じゃそんなに自覚ないんですけど」
「バレバレだよ、お前は。困ったもんだ。だから…さ」
いったん区切って、王太はそっと雨丸の頬に手を伸ばした。触れたのは頬の温かさと涙の冷たさ。
「泣くなよ」
「っ……」
ぽたぽたととめどなく溢れてくる涙が王太の手を濡らしていく。雨丸はしゃくりあげながら、ただひたすらに謝った。決めたのは自分なのに、まだ言いたいことも言わなきゃいけないことも言えてないのに。
嗚咽だけが零れて、言葉が出てくれない。
「本当、泣き虫だよなー、お前」
「すみませっ…」
「今日だけだしな、思う存分泣けばいいさ」
その言葉に雨丸は驚いて、顔を上げた。大きく目を瞠って、まじまじと王太を凝視してしまう。
青ざめていく雨丸の表情に、今度は王太が困ったように笑った。
「そんなに驚くことか?」
「だ…って、まさか…」
「俺な、本当は知ってたんだよ。お前がENISHIプロジェクトの被験者だったってこと。まぁ、縁に本当にお前の片割れがいるとは思わなかったけどさ」
「…………怒らないんですか?」
「何を?」
「俺が………」
そこで止まってしまった。雨丸は何度も口を開閉させて、ようやく声を絞りだした。
「裏切ったことを。怒らないんですか」
「怒ってほしいのか?」
呼吸が詰まる。雨丸は、情けないくらいに動揺している自分に呆れた。
怒ってほしいのかもしれない。罵ってほしいのかもしれない。
でも、それはきっと――――。
「いえ、それはきっと俺のわがままでしょうから」
それだけはいえません。と、雨丸は断言した。そうかと王太も小さく返した。
おもむろに王太は、疑問を小さく呟いた。
「なぁ、お前にとってあの鳥籠はなんだったんだ?」
鳥籠とはもちろんあの研究施設。本当にあそこは鳥籠のようだったと思う。
自由に空に翔たくことさえ出来ず、ただ空を憧れて日を過ごすだけの日々。
王太にとってはただの檻だったそこは、雨丸にとってはどうだったのか。
雨丸はその時垣間見た王太の表情に息を呑んだ。
そこには、酷く懐かしそうな表情とは反対にとても冷たく鋭利な光を宿した瞳があった。
雨丸はゆっくりと考えて、王太の満足行く答えを探した。
でなければ、王太はきっと雨丸を二度と許しはしない。そんな気がした。
「俺にとって――――、あそこは世界でした。あの世界が俺の世界で…そして、彩花が俺の全てでした」
今となって思い返せば、本当に無知な子供であったと思う。何も知らず、何か疑問に思えば傍らの彩花が答えてくれた。毎日決まった時間に起きて、決まった時間に食事して、決まった時間に訓練をする。なんて、つまらない世界だったのだろう。でも、それでも彩花がいれば、パートナーがいればそれだけで良かった。それだけで、世界は色を持ち、鮮やかに輝いたのだ。
「そっか。じゃあ、雨丸は自分の世界に帰るだけか…」
王太は納得したのかしていなのか、雨丸にはその表情を読みきれなかった。膝についた手を握り、ここにきた本来の目的を果たそうとした。
胸ポケットから取り出した白い封筒。そこに書かれたのは――――
「班長、退職願です。受理して…くれますか?」
本当今更な気もするが、これはけじめだと思った。
WS特殊部交通課の砂紗雨丸としての、最後の仕事。そして、はっきりとした裏切りの証。
ただこれを渡すためだけに深夜の病室に忍び込んだと思うと、いささか笑いもこみあげてしまうがこれが精一杯の雨丸なりの班長への敬意だった。
このまま何も言わず、姿を消すことは十分可能だった。
でも、そうすればきっと班長は俺を追いかけてくる。それでは意味がないのだ。俺なんかを追う必要はない。
それをはっきりさせるために、雨丸は人生初の退職願を書いた。
そうしたいと願った雨丸に彩花はただ一言。
『めぇがそれを望むなら』と許してくれた。その時見た泣きそうな顔は一生忘れない。
二度とあの手を離しはしないと決めたのだ。たとえ、暖かくて綺麗な世界を失ってでも。
その覚悟を示すためにも、雨丸は握りしめた退職願を班長が受け取ってくれることを願った。
差し出されてから、班長がそれを受け取るまで雨丸は生きた心地がしなかった。
それでも、しばらく経ってから紙がこすれる音がしてようやく受け取ってもらえた願い。
雨丸は班長の顔を見れなかった。
どうすればいいのかわからない。どんな表情をすればいいのか。どんな言葉をかければいいのか。
ごめんなさい?ありがとう?
謝罪と感謝。どれを言えばいいのだろう。
ぐるぐると頭の中で思考がまとまらない。
すると、不意に頭に温かな感触が訪れた。
「確かに受理したぜ。これで、お前は交通課の砂紗雨丸ではなく、ただの雨丸だ」
ぽんぽんと頭におかれた手の暖かさにまた瞳に涙が溜まっていく。それを意地で食い止めて、雨丸はただ一言零した。
「ありがとう……ございましたっ」
王太の手が離れたのと同時に、ごしごしと袖で両目を乱暴に拭い雨丸は少しだけ笑った。
お互いがこれで会うのは最後だと理解しているのだろう。
だからこそ、笑顔で別れたい。雨丸は椅子から立ち上がり、窓へと背を向ける。
最後にもう一度だけ、班長に向かい一礼した。
「班長、俺にとっての唯一は彩花ですけど。班長は俺にとってはもったいないくらいの最高のパートナーでした」
そう言って、雨丸は窓から身を投げた。
月だけが知っている二人だけのやり取り。
そして、月はようやく欠けていたものが戻った綺麗な満月だった。